「か、カナン!! いっ、いつからいたのよ」
「たった今ですよ。ティア様がこちらにいらっしゃるような気がして」
 ティアの問いに彼は穏やかな態度で答えた。レグホーンの少し長めのストレートヘアーを後ろでひとくくりにしたその青年は、薄紫色のたれ目がちな瞳でティアを捉えやさしく微笑んでいる。
 彼の名はカナン・ティアース。ティア専属の従者である。従者の家系に生まれ育ったカナンは物心ついた頃からティアの傍にいた。その絆は、主従と言うよりは幼馴染。もっと言えば家族に近いものだった。
「それよりも国王陛下、どうなさったんです?」
 今度はカナンが質問をする番だった。向けられた問いにティアは焦りを感じるが、小首をかしげるカナンはどうやらティアが国王を金属バッドで殴ったことには気づいていないらしい。
「そ、それがお父様ったら突然倒れちゃったのよ。風邪かしら」
冷や汗をかきながら、ティアは引きつった笑みを浮かべて答えた。傍目から見れば怪しいことこの上ないのだが、どうやらカナンは納得したようだ。
「そうですか。やはり大変なのですね、国王という職業は……」
悲しそうに眉を落とし、カナンは完全にのび切った国王に目を向ける。完全に信じきったカナンの様子に「やり過ごせた!」とティアは心の中でガッツポーズを取った。
だが、安堵するのもつかの間。
「ところでティア様。その右手の金属バッドはいったい……?」
「……へっ?」
 カナンはいつしか、ティアの右手の金属バッドを無言で見つめていた。そう、彼女の右手にはまだ父親を殴った凶器がしっかりと握られてたのだった。
(し、しまった! 凶器を処理の忘れてたわ――!!)
 心の中で絶叫するが、時既に遅し。カナンは何かを悟ったのか顔をにごらせる。床に倒れている国王と、金属バッドを持っている王女。この図はいくら鈍感な人間でも何かを感じ取るのは明らかだろう。
「まさか……。あ!! ティア様!?」
 カナンが思いを巡らせている間に、ティアは部屋の窓から「とうっ!!」などと格好をつけながら飛び降りた。『悪事はバレるまえにずらかれ!!』……ティア王女の悪知恵のひとつである。
(よかった、門番は昼食中。ならこのまま、城下町までダッシュよ!!)
 庭の柱に隠れながらそそくさと変装セットをまとうと、ティアはエルデスティラ城下町へと向って走り出した。城下町にはティアがお忍び中によく会っている同い年の遊び相手がいる。彼にかくまってもらう気満々のティア王女であった。



 エルデスティラ城下町は今日も大勢の人で賑わっている。中心街には果物屋、花屋などの露店が並んでおり、少し離れた住宅街では小さな子どもが集まってかけっこなどをしている。そして、人目から離れるようにその教会は静かに立っていた。聖・ヴェネツェル教会。白い清楚な修道着に身を包んだ聖職者達が集い、神に祈りを捧げる場所である。
 ところが、白い聖職者たちの中でただ一人だけ『黒』に身を包んだ少年がいた。
神聖な教会にひときわ目立つ濁った色――この教会では、『黒』は災いをもたらす色だとして嫌われていた。その為、少年の格好を快く思わない人間たちがこの教会には多かった。
「ねぇ、ほら見て。あの子またあんな格好しているわよ……」
「だいたい、神に仕える身なのに黒い服なんて不吉よね」
 少年を視界に捉えた女達は口々にささやき出す。いわば陰口だ。そしてその内容は少年本人に筒抜けであった。
「今日もお祈りの時間に居眠りをしたそうよ」
「まぁ、なんと言う事を……」
……こんなのいつもの事だ。聞き流せばいい。そうは思うものの、陰口とは本人がいない場所でひそかに行うものだ。いつまでも続く女達の陰口に耐え切れなくなった少年は、苛立ちながら女達のもとへと歩み寄る。
「あのさぁ」
「! あ、あっち行きましょ……」
「え、ええ」
声を掛けた途端にそそくさとその場を離れていく女達の後姿を見送りながら、少年は軽くため息を吐いた。
 黒い少年の名はセリシア。こう見えてもヴェネツェル教会の神父の一人息子である。
銀色に輝く髪と血のように真っ赤な瞳をした彼は、かろうじて十字架のアクセサリーは付けているものの、黒い服装のせいで教会では悪い印象を与えていた。
(はぁ……別にいいじゃん服装くらいさ。だいたい、正装は暑くてヤダ。あんなの着れるわけねーじゃん)
 などとセリシアは心の中で悪態を吐く。そして先ほどの女達の言葉を思い出し……セリシアは人知れず眉を下げた。
(別に、気にしてねーけどさ……)
思いとは裏腹にセリシアの気分は沈んでゆく。強がっているだけで内面はとても繊細な、年頃の少年なのであった。
「セリシアーっ!」
 その時、暗い気分を打ち破るかのように明るい声が聴こえてきた。……幼馴染のティアだ。それまで暗い気分だったセリシアだが声の主に気づいた途端、機嫌が良くなっていった。
彼女はいつも、こっそりと城を抜け出してはセリシアのもとまで遊びに来ていた。
「ティア、また遊びにきたのか?」
 きっと今日もいつものお忍びに違いない。そう思ってセリシアは軽く問いかけた。だがすぐに、彼女の様子がいつもと少し違うことに気がつく。
 背中には大きなリュックサックを背負い、右手には金属バッド。そんなへんてこな装備をしたティアは、なにやらキョロキョロと辺りを気にしている。『何かあったのだろうか?』そう思ってセリシアが問いかけようとした瞬間。
「セリシアかくまって! 私、家出してきたの!!」
「いえっ……はぁぁ!?」
 告げられた言葉にセリシアは目を見開く。だがすぐにこの話をするには場所が悪いと判断した。教会前のこの場所は人目に付きやすい。
「とっ、とりあえず、こっち来い!」
慌ててティアの手を引くと、セリシアは彼女を連れ、教会から少し離れた路地裏の小道へと入っていった。